CEYLON HANABI

「アイデンティティ」の真の捉え方とは

令和 初の投稿。かなり久しぶりの更新になってしまいました。

今年はもっと頻繁に更新すると年初に宣言したものの、更新してない間に、当地では爆破テロが発生し、自分の気持ちの整理をつけるのに時間がかかり、その後も想いをブログに書くことを躊躇していたら、さらに約一か月が過ぎ去ってしまっていました。

 

今回の大惨事に関して、当地の今後の安全性や経済面等に関する記事をよく見かけますが、私は「アイデンティティ」という切り口で、事件そのものというよりかは、事件後の情勢と「アイデンティティ」という概念そのものについて、ざっくり思いの丈を書きます。あくまでも、私の個人的な意見。

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事件がおきてから、容疑者たちは次々と逮捕され、非常事態宣言や外出禁止令は続いているものの、コロンボは少しずつ平常に戻ってきたのではないかなと感じる(といっても、事件当時私は偶然にも日本にいたので、ここに関しては詳しく書けませんが)。

ただ、報道をみていると、やはり地方部では、

「お前の民族がこのようなテロを起こした」と穏健なムスリム・コミュニティに対する「嫌がらせ」があったり、地方各地ではテロ後に民族間の衝突が何度も起きていて。

実際に、東部州の人々の話を聞いてみると、(ここにはあまり詳しくはかけませんが、)ムスリムの人はかつてなく疎外感を他コミュニティから受けていて、コロンボとは全然状況が違うよ、と。

テロが発生したことを発端に、今度は国内でスリランカ人同士の衝突や亀裂。

これはテロ発生前も、もちろんあった。スリランカでは民族・宗教間の対立がゼロではない。

でも、それが今回のテロが発生したことにより、確実に(一時的かもしれないけど)後退している。

同じスリランカ人同士なのに。

みんな、この美しい島の国民同士なのに。

多民族・多宗教が共存する島だからこそ、それぞれの民族や宗教の「アイデンティティ」を前面に押し出す前に、まずは同じ「スリランカ人」としての共通の「アイデンティティ」がこの国の人々のマインドに根付けばいいのに。

こんな時だからこそ、統一して、国の復興のためにも、各民族・宗教が手をとりあえたら美しいのに。

けど現実はそう簡単ではない。

そもそも民族や宗教間対立は今にはじまったことではないからこそ、悪化してしまうのは簡単なこと。

テロが起きたことは、もちろん許せない。

けど、その後のスリランカ国民の在り方次第で、スリランカの今後の在り方も決まっていく。だからこそ、共通の「アイデンティティ」をもてたらな、と浅はかながら思ってしまう。

 

・・・その反面、「アイデンティティ」って負の要素もいっぱい。

 

個人的には「アイデンティティ」という言葉がもともと大っ嫌いだった。

 

海外で「Where are you from?(あなたはどこ出身?)」と聞かれることが苦手。

私は見た目も若干日本人離れしていて、幼少期や学生時代を海外で過ごしていて、なぜか性格も「一般的な日本人」とはかけ離れているところもある。なので、国籍は日本人でも、日本に自分の居場所はないと感じていた年数が長かった。

 

日本にいたらいたで「本当日本人ぽくないよね!」(何がかは不明)とよく言われてきたことから、「私は日本人なんだ」といった「アイデンティティ」は20代半ばまでは完全に失ってた。

 

帰国子女が帰国して早々に起こすアイデンティティクライシス的なものが、なんだか長引いた感じ。

(なので、映画「GO」は永遠のバイブル。“俺は俺なんだよ。俺は俺であることすら捨ててやる。クエスチョンだ。はてなマークだよ。物体Xだ!”

かといって、海外にいたからといって、当然、そこの現地人になれるわけでもなく。

どこにいっても外国人扱いを受けて、結局自分の居場所はどこなんだろうか?と、20代半ばまでは迷走気味だった。

 

だから、私は「Where are you from?」というアイデンティティを直球で問う、この質問が、相手に悪気がなくても、すごく嫌いだった。

 

それに加えて、日本は「アイデンティティ」を前面に出すことで、人を縛る。

「日本人なんだから、○○しなさい」

「30歳なんだから、○○であるべき」

その人を表すすべての要素が「アイデンティティ」化して、

規律を正す役割をしつつも、レールから外れた生き方をしている人間にとっては負担でしかない。

 

だから、私は、この中二病みたいなクライシスを乗り越えた20代後半からは、自分にとって「アイデンティティ」は必要なくて、「自分」というブランドだけで生きていこうと思っていた。

(うーわ。少しかっこつけました、ごめんなさい)

 

それに、今回の事件後も、ある意味、特定の民族や宗教の「アイデンティティ」が強く働きすぎることで衝突が起きてネガティブな働きをしている。

 

けれど、その「アイデンティティ」の括りが「スリランカ人」に変われば、もっとよくなるのではないか・・・と思ったことからも、国籍による一体感ってポジティブな役割も果たせるんじゃないかな、と自分としても初めて考えることができた。

 

スリランカ人が、もちろん自分の民族や宗教を大切に思いながらも、まずは、この島で暮らす同士としての「スリランカ・アイデンティティ」が確立されたらいいな、と思うと同時に、自分も「ジャパン・アイデンティティ」をもっと大切にしていこうかなと、思い直すきっかけにも少しだけなった。

 

各国、文化、コミュニティ、個人にとって、「アイデンティティ」がそこにどう影響してるかは、無限数。

そして、時に人々を縛り、時に人々を統一させる。

人を悲しませることもあれば、良い方に盛り上げる働きもする。

すべては捉え方次第なのかもしれない。

小さい頃から「アイデンティティ」についてよく考えてきて、

万年反抗期な私は歪んだ考え方に偏っていたかもしれないけど、

今回のことで、また「アイデンティティ」に関していろいろ考えるきっかけにもなった。

 

Last but not least…

亡くなられた方たちのご冥福を、そして大切な人をなくして苦しむ方々のことを心から想い続け、いち早くスリランカが傷を癒せるよう願ってます。

今回は少しまじめな内容、且つ初めてyunaproject外の話になりました。

最初にも書きましたが、あくまでも私個人の想いです。

 

では、皆様、よい週末を…  🙂

 

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